77年目の広島原爆の日
今日、8月6日は、77年目の広島原爆の日です。広島県東部の離島出身の私は原爆について軽々には語れない複雑な思いがありますが、ひとつだけ。
小学校の修学旅行が宮島と広島市への一泊旅行でした。宮島の厳島神社に参拝し、幼少期の軽薄な私が意味が解ってしたかどうかは甚だ疑わしいですが、原爆ドームと平和記念公園に黙祷を捧げ、原爆資料館を見学しました。そして、そのおどろおどろしい展示内容に非常なショックを受けたことを今でも鮮明に覚えています。
また、被爆という楔は広島の人々の日常生活の中に深く突き刺さっていて、多くの被爆者の方々の尋常ならざる苦難の人生を子供ながらに見聞きして育ちました。その被爆者の方々の苦難の人生は現在もそして将来に亘っても続いていくのだと思います。
原爆、核、原子力とはそうしたものです。チェルノブイリも福島第一原発も何ら変わりはありません。
しかし、近年長じて二たび原爆資料館のドアをくぐった私はその展示内容があまりにソフトになっていることに驚くとともに、非常に悲しい気持ちになったことを記憶しています。
容易く『我々には核があり、我々にはそれを使う権利がある。』などと決して誰にも言わせてはならない。広島市のホームページにもあるように、『原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。』
そして、被爆という事実は決して過去のものではなく、将来に亘ってもそれは続いていくのだということを胸に刻んでおかなければならないと思っています。
黙祷。
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昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。
原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。
原爆被害の概要についてもっと詳しくお知りになりたい場合は、ヒロシマ・ピース・サイト(広島平和記念資料館ホームページ)をご覧ください。
[広島市のホームページから引用]
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文責:HP担当 藤原
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